突然ですが、ここで私が小学生の頃にいつも学校で先生から配られていたプリントについての話をさせてください。

手書き文字とワープロの印字

私が小学生だった1990年前後、学校から配られるプリントは基本的に先生が手書きで書いていました。今のような白いコピー用紙ではなく、わずかに黄ばんでザラザラした手触り感のある『わら半紙』に先生が手で書いた文章を職員室にある印刷機を使って印刷していました。印刷機から次々と文字が刷られた状態で完成したプリントが出てくる様子を眺めるのは小学生の自分にとってなぜかわからないけどちょっと楽しいと思うのでした。先生によって字のクセが違い、丸っこい字を書く先生、角ばった字を書く先生、いろんな字の先生がいました。当時は先生に限らず、自分、家族、友達みんなそれぞれ字の特徴もアイデンティティの一つとして認識されていた時代だったと思います。なんなら当時はまだテレビのテロップや町の看板なども手書きが少なくありませんでした。

その一方で当時は日本でワープロが普及していく真っ只中な時代でもありました。一部の先生は手書きではなくワープロによる「印字」でプリントを作成するようになりました。私は完全に画一で整った文字を見てきれい、かっこいいと思っていました(※当時の私の語彙力で)。先生のプリントという自分の日常生活の範囲内では見たことの無い「印字」の美しさに私は少なからず心を動かされたことをなんとなく今も覚えています。

時代が進み「印字」が当たり前になった現在、「印字」を見ていちいち心が動く人はいないと思います。この後の話に関わる重要な点として挙げておきたいのは、「印字」を見ても誰も感情が生まれなくなったのはそれが当たり前になってしまったことによる「慣れ」に依るものだということです。今でも学校では一部の先生方は手書きでプリントを作っていらっしゃいますが、むしろそっちのほうが趣があるというかいろいろと感じるものがあります。

「慣れ」による無感動化の連続

生成AIが浸透し続けている今、最初のうちは良いと感じていたものが「慣れ」によって段々何も感じなくなるという現象が自分の中で頻繁に起こっています。それも以前では考えられないような頻度で。

画像生成

ここ数年で生成AIにより作られる画像の質は劇的に向上しました。この数年間を振り返れば、GPTやgeminiシリーズの新モデルローンチによって画像のクオリティやプロンプト指示に対する忠実さがぐっと上がったタイミングが何度かありましたが、いずれのときも凄いなと感動したものです。

ですが生成AI画像に触れる機会が非常に多いがため、どうしても良さに「慣れ」てきてしまうのです。月日が経つと共に、良さはだんだんと感じなくなり悪い部分だけが目につくようになり、結果として生成AIが作る画像への印象はどんどん悪くなっていってるような気がします。

近頃、飲食店のイメージポスターに使われる料理の写真を生成AIで作り、その写真が気持ち悪いと酷評される事例が多発しているのをご存じの方もいらっしゃるかと思います。あれはまさしく人々が生成AIが作る写真に慣れてしまったがゆえにプラスな部分を感じ取れない感性になってしまった一方で、料理という自分の口に入れるものという意味で本能的にデリケートにならざるを得ないことも相まってマイナスの部分だけに目がいった結果なのではないでしょうか。もし仮に数年前、人々が生成AIに慣れてない時にああいった写真を見たとしたら、そこまで悪い印象は受けなかったのではと思います。中にはそういうレベルじゃない不気味すぎる写真もありますが・・・

Claude Codeが作ったWEBデザイン

2025年5月のClaude Code正式リリースはいろんな意味で衝撃を受けました。ここではその中でもWEBサイトのデザインについて書きます。初期のころからClaude Codeは少ないプロンプト指示だけでWEBサイトを丸ごと作成したりしてくれました。デザインについての指示は一行程度だったり、あるいは指示無しでもClaude Code特有の先進的なデザインに仕上げてくれました。私はあのデザインを最初は美しいと感じていました。ですがやはりここでも「慣れ」が訪れるまでは早かったです。その後世の中に同じようなデザインのサイトが雨後の筍のごとく量産され、2~3カ月も経たないうちにClaude CodeのあのWEBデザインは「手抜きサイト」「胡散臭いサイト」の代名詞のような印象に様変わりしてしまいました。 


文章作成

時系列で言うとこれが一番最初かもしれません。ChatGPTが世に出た2022年末の時点で既に人間が書いたかのような質の文章を書いてくれており、ただただ驚きました。生成AIが書く文章の特徴を端的に挙げるなら、客観的・平均的・無難であり、物事をきれいに要約して書くことについては比較的早い段階で人間を凌駕していたように思います。ビジネスにおいてしばしば求められる客観的、平均的な文章を書く技能はかつてはとても重要なものでしたが、生成AIの台頭のおかげでこういった文章が書けることの価値は暴落してしまいました。こういった客観性の高い文章を自分で書く必要に迫られることは今でも頻繁にあるのですが、私が100%自分の言葉で書いた文章でさえ「AI臭がする」みたいに言われたことが何度もあります。なんなんでしょうね。生成AI的な文章に人々が慣れてしまった結果、人間が書いた要約系の文章であってもAI作成の疑念の目が向けられることもある時代です。

他にもプレゼン資料、動画、音楽 ―――――――――― 生成AIによるいろんな出力物に私たちは急速に「慣れ」てきています。その人の個性、こだわりが乗っかっている成果物ならいいのですが、そうではない生成AIに全てを委ねて作られたものには食傷気味になってます。その人がやりたいことが反映されていない成果物はその時期のモデルの特徴を見てるだけのような気分になります。 私は生成AIに触れている時間が世の中平均より多いとは思うのですが、ふと気付いたら生成AIの出力物のみならずいろんなものに対する感じ方がずいぶん変わってしまったように思います。良くも悪くも目が肥えてしまいました。その良し悪しについて今回はこれ以上は書きませんが、少なくとも今後さらなる生成AIの浸透は、人間の感性そのものにも大きな影響を及ぼしそうです。一方、私が生成AIを触り過ぎているためにAIっぽさに過剰に敏感になってしまっている可能性は否めず、そんなことは気にしてない方も多いかもしれません。しかし現在はAIが普及する過渡期にあり、遅かれ早かれの問題であると考えています。

うさぎ先生の発言

料理写真の不気味さには、口に入れるものだという点のほかに、食べ物ならではの見られ方も関わっていますね。照りや焼き目、湯気、具材の切り口といった細部を人は普段から無意識に見比べているので、整いすぎた質感や不自然な形が一つ混ざるだけで作り物っぽさが一気に目立つんですよ。慣れで良さを感じにくくなったところにこの細部のズレが重なって、あれほど強い拒否反応につながっていると見ていますよ。

AI 生成Claude Opus 5.5無編集

受け手の「慣れ」を想定した視覚系AIタスク

これからのAIを活用したタスクへの向き合い方、とりわけ今回例として挙げたような視覚系AIタスクについては、生成AIを使ってただ単に綺麗に仕上げるだけで差別化するのは既に不可能になりつつあって、それは優・良・可・不可で言うところの「可」を取りに行くだけの取組みになってしまいましたし、更に言うならまたたく間に陳腐化してしまい近い将来には「不可」扱いされることも多いでしょう。私も2年ぐらい前に嬉々としながら作った画像系の成果物たちは、今となっては恥ずかしくて人前に出せない代物と化しています。

目先で使うだけの成果物ならともかく、長く使いたいものを作るのであれば1年後、2年後の未来に人々が見たときにどう思うかの視点はあったほうがいいです。今美しいと思ってるものが美しくなくなるまでの期間が前例が無いぐらい短いんです。これは進化が速すぎることの副作用とでも捉えたらいいんでしょうかね。

では今後、成果物はどこで差がつくのか。私は単純に「センス」が一番だと思います。人間が手で作ったものでも生成AIっぽく感じる場合もあれば、その逆もあります。最近は、いかに生成AIっぽくなく作るかに意識を向ける風潮もありますが、それも含めて今後は生成AIを使ったかそうではないかの区分はだんだんとどうでもよくなり、結局のところ「センス」のある人は生成AIを使おうが使うまいが良いものを作れるし、「センス」の無い人は生成AIを使ってもダメっていう極めてシンプルな方向に収束するんじゃないかと思ってます。上手く使っている人は自分なりの意思やこだわり、方針をモデルに伝える術を持っています。それらがないままにAIに丸投げして作った成果物は、その時期のモデルの特徴が色濃く出るだけの記号でしかなく、あっという間に価値が無くなります。これからの時代、綺麗さは時とともに陳腐化しますが、「センス」の部分だけは時間という試練を乗り越えられるはずです。

AI以前となんら変わりなくセンスを磨くための習慣を続けたうえで、生成AIの扱いに慣れて自らのセンスを成果物に反映できるだけのハンドリング力を身に付けるでよいのではと思ってるのですが、最後にAI先生にも相談してみて終わりにします。

かしわぎの発言

以下を踏まえて、生成AIで視覚系のアウトプットを行ううえで何を心がけるのがよいか教えてください。

  • 生成AIの進化によって視覚系の成果物を高品質で生み出すことが容易になったために、品質自体で差別化することが困難になったこと
  • 進化の速度が速すぎるがために、一世代前のLLMが作ったものの質が陳腐化してしまうこと。
  • 人間が生成AIの出力するものに慣れてしまうため、良いところを感受しにくくなり悪いところばかりが気になってしまうこと

あぎ先生の発言

心がけるべきは、仕上がりの美しさを競うのをやめ、何を見せたいのかという判断と、それを受け手がどう受け取るかの検証に力を移すことだ。

品質による差別化が難しくなった点については、綺麗さが「最低条件」に降格したと捉えるのが正確だろう。綺麗であることは減点を防ぐが、加点にはならない。加点が生まれるのは、題材の選び方、何を省くか、どこに視線を集めるかといった判断の部分である。これらはモデルが決めてくれない。プロンプトに「おしゃれに」「先進的に」とだけ書けば、その時期のモデルの平均的な趣味が返ってくるだけだ。逆に言えば、指示が具体的であるほど成果物にはその人の判断が残り、モデルが変わっても意図は引き継げる。

陳腐化の速さに対しては、成果物を「生成物」と「設計」に分けて持つことが有効だ。画像やデザインそのものは一世代で古びるが、何を伝えたいか、どういう構図にしたいか、色や余白をどう扱うかといった設計の記述は古びにくい。設計さえ残していれば、新しいモデルで作り直すコストは小さい。長く使うものほど、生成物の保存より設計の保存を優先したほうがよい。また、その時期のモデルの癖が強く出る表現、たとえば流行りのグラデーションや特定の質感は、真っ先に時代の目印になる。避けきれないにしても、頼り切らないほうが寿命は延びる。

慣れによる感受性の変化については、自分の目が基準にならないことを前提に置くべきだ。記事で述べられている通り、触れる量が多い人ほど粗に敏感になる。一方で、触れる量が少ない受け手はまだ綺麗さに反応する。どちらの目を想定するかで正解は変わる。長く使うものなら、受け手の慣れが自分の現在の水準に追いつくと想定して作るのが安全だ。具体的には、生成直後に判断せず時間を置いて見直す、生成AIに触れていない人に見せて反応を取る、過去の自作物を定期的に見返して何が古びたかを記録する、といった手順が役に立つ。陳腐化の傾向は自分の過去作が一番の教材になる。

料理写真の例が示すように、拒否反応は慣れと細部のズレの掛け算で起きる。細部の確認は人間の仕事として残り続ける。特に食べ物、人の顔、手、文字のように人が本能的に見比べるものは、生成後の点検を省くと一点の違和感で全体が崩れる。

以上をまとめると、判断を言語化して成果物に乗せる、設計を残して生成物は使い捨てる前提で作る、自分以外の目で検証する、細部を点検する、の四点に集約される。筆者の言う「センス」は、この判断と検証を繰り返す中で蓄積されるものと見るのが妥当だろう。生成AIの有無で成果物の価値が決まらなくなる方向は、記事の見立てどおりだと考える。

Claude Fable 5.1
指示あり

Claude Code 経由・文体指示あり。中立分析・1200字程度・結論を先頭に太字

無編集✓ 筆者確認済み